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エルツ地方のお話  

この記事はインターネットに掲載されていたものを無断で和訳しました。あしからず。

雪のエルツ地方の写真⇒


鉱山地帯からクリスマスの里へ

古くからザクセン人と交易があり、エルツ山脈地方と深く結びついていたボヘミア人たちは、すでに10世紀から11世紀にこの地に移住しはじめていました。12世紀になって鉱山の発掘がはじまり、エルツ山脈地方への入植が本格的に始まりました。それ以来、鉱山業はこの森深き中級山岳地帯の主要産業となり、住民の暮らしを形作りました。「エルツ山脈地方Erzgebirge」という名前は豊かなErz(=鉱石)に由来しています。しかし、この名前は17世紀ごろにはじめて使われるようになりました。

鉱山夫たちの仕事場は暗く、体力を消耗させました。鉱山の仕事だけでは十分なお金を稼ぐことがでず、なかには食べるものにさえ困る鉱山夫もいました。したがって、副収入を得るため、鉱山関係者の家族は早い時期から内職として手工業をはじめました。女性たちは刺繍やボビンレースあみや飾りレースあみ、そして靴などを内職で作りました。

男たちは鉱山の中で木を扱うことが多かったので(坑道の天井を支えるための支柱を立てたり、輸送用の箱や立抗《梯子》、鉱石運搬車・水車・打砕装置を作ったりしていた)、木材の加工はお手の物で仕事を終えたあとに日常品や燭台などの彫刻や背負子などを作って乏しい家計を支えていました。鉱石の埋蔵量が少なくなり、暗い坑道にもぐり込む意義がなくなってきたころ、この内職は多くの鉱山夫たちの主たる職業となり、エルツ山脈地方での主産業となっていきました。この技術は世代を超えて受け継がれていきました。多種多様なクリスマス装飾品。アドベンツやクリスマスの頃美しく飾られたエルツ地方の家々。−やがてこの地方は「クリスマスの里」と呼ばれるようになりました。

もしエルツ山脈地方を訪れることがあれば、旧坑道や工房の見学を通じて過去から現在への軌跡をたずねてみてください。  

 

 

エルツ山脈地方特産クリスマス装飾品の発達 

くるみ割り人形 

くるみ割人形は19世紀中頃からエルツ山脈地方で見られるようになりました。木工旋盤(ろくろ)の使用で大量生産が可能になり価格も手ごろになりました。最初に木工旋盤を使用してくるみ割り人形を製作したのはザイフェンのヴィルヘルム・フリードリッヒ・フヒターであると言われています。彼は1851年にハインリッヒ・ホフマンの書いた「くるみ割り人形の王様と哀れなラインホルド」という絵本を参考にしてくるみ割り人形を製作しました。このお話はクリスマスの時期に上演されています。それはある病気の男の子のお話で、夢の中でくるみ割り人形が彼をおもちゃの国へつれて行きます。翌朝彼が目覚めるとクリスマスツリーの下におかれたおもちゃを見つけ、また元気になる、というものです。このお話ではじめてくるみ割り人形とクリスマスが結びつき、クリスマス時期に生産されるようになりました。ほかのくるみ割り器とちがい、エルツ山脈産のくるみ割り人形は木の実を割ることはできず、おもちゃとしての役割がほとんどです。    

 

Nußknacker

クリスマスピラミッド   

Pyramide

18世紀にはすでにクリスマスピラミッドはエルツ山脈地方の教会でクリスマスに欠かせない装飾でした。これは、鉱山での立抗の搬送装置の構造を参考にして作られたと言われています。中央の回転軸に動物や人物などの像の乗った円盤が取り付けられています。最上部には少し傾いた羽根があります。燃える蝋燭から立ち上る暖かい空気がこの羽根を動かし、ピラミッドが回転するようになっています。  

光の像

エルツ山脈地方特産の光の像ももともとは鉱山に由来します。17世紀にはすでに、鉱山夫をかたどった蝋燭台が祭壇燭台の代わりとしてエルツ地方の教会を灯していました。鉱山夫たちも制服と仕事道具を身につけて教会を訪れていました。一方、天使をかたどった蝋燭台は、宗教的な事柄に由来します。

この二つの像は大抵、対にして飾られました。これはエルツ地方の古い慣わしにちなんでいます。かつてはアドベンツからクリスマスの時期にかけて、男の子のために鉱山夫の像を、そして女の子のために天使の像を窓際に立てました。そうすればクリスマスの装いをした家々の前を通るとき、その家に何人の女の子や男の子がいるかすぐわかったからです。19世紀のはじめから職業や宗教に関係なくこの像がかざられるようになりました。  

 

Engel und Bergmann
シュビッブ アーチ   

朝課シフト(Mettenschicht)とはもともとは鉱山夫たちのクリスマスイブ前の仕事の最終シフトのことで、ミサが締めくくりにありました。横坑の入り口にクリスマス装飾を施すために燈っているランプを半円形に口の穴(入り口)にぶら下げました。シュビッブアーチ(Schwibbogen)はここに由来しています。  

ところで、その名前は「浮かんでいるアーチ(Schwebebogen)」からきています。それは二つの壁の間で崩れている、あるいはそこに「浮かんでいる」古い石造りのアーチのことを意味します。  

最初のシュビッブアーチSchwibbogenは金属製でした。1726年ヨハンゲオルゲンシュタットで鉱山の鍛冶屋ヨハン・テラーが製作しました。アーチの内部は宗教的なテーマのモチーフが多く用いられました。19世紀初頭になりはじめて日常生活のモチーフが用いられるようになりました。 

典型的なエルツ地方特産のシュビッブ アーチは、しかしながら1937年にはじめて作られます。その頃はエルツ地方西部のシュヴァルツェンベルグで、"Feieromnd-Ausstellung"という展覧会が開催されていました。その広告手段として7メートル×4メートルの大きさのシュビッブアーチが設置されました。このアーチはパウラ・ヨルダンの設計によるものでエルツ地方の歴史が描かれています。

その2年前にはザイフェンでマックス・シャンツ設計の「ザイフェンのシュビッブアーチ」が製作されていました。シャンツは雪におおわれたおもちゃ職人の家々の中央にザイフェン教会を描き西エルツ地方のものと異なり木で作成しました。 Schwibbogen

 

お香 Räucherkerzen

18世紀中頃になりはじめてエルツ山脈地方のクリスマスの慣わしにお香が仲間入りしました。マタイによる福音書のクリスマスのお話のなかに、香煙は「三賢者」の有難い贈り物であると書かれています。そのことから、お香を焚くことがクリスマスの時期に行われるようになりました。お香は木炭をひいたものとつなぎとしての片栗粉を混ぜ合わせたものです。その香りはジャスミンやミルラ、ムスクあるいはシナモンなど秘密の混ぜものによります。クロッテンドルフでは当時すでに何世紀にもわたりエルツ地方特産のお香が生産されていました。  

煙草吸い人形  Räuchermann Förster

ずっと昔からエルツ山脈地方には蝋燭台としての光の像がありました。そこでここに住む人々はあるアイデアを思いつきました。常に好まれているお香の像を燭台に応用するというものです。

煙草吸い人形誕生の時が訪れました。人形は二つの部分から構成されています。足のついた小さな土台とその上に乗せる頭と腕のついた上体です。しかしその腹部は空洞で、この空洞部分は上に行くほど細く管状になっており、この管は頭部から口の開いた部分へとつながっています。お香の先に火をつけてから煙草吸い人形のお腹の中へ置くと、煙が上昇し、口から外へ出て行きます。内部で香の火が消えないために空気をとりいれる穴が12個、人形の背中の下の方にあいています。 

19世紀半ばは煙草の嗜好が流行していたので煙草吸い人形はすぐに世界中に広まりました。人形のモデルとなっているのはエルツ山脈地方の人々の日常の姿です。鉱山夫やきこり、森の番人など昔ながらの職業をうかがうことができます。一方、サンタクロースや雪だるまの姿も見かけます。煙草吸い人形「トルコ人」の製作はオリエンタル地方での煙草の消費量が高いことに基づいているようです。  

クリスマスツリー飾り 

15世紀のはじめからクリスマスツリーの装飾はドイツに於いてクリスマスのお祝いに欠かせないものでした。リンゴ・木の実・レーブクーヘンそして砂糖菓子・チーズにソーセージなどがクリスマスツリーを飾り立てました。当時はどちらかと言うと、子供たちのおやつとして考えられていました。

19世紀にクリスマスツリーを飾る習慣はヨーロッパの各地だけでなく「新世界(北アメリカ)」にも広がり、つくりものの飾りの需要が飛躍的に高まりました。以降、エルツ山脈Baumschmuck地方ではツリー飾りが特産品となっています。

 

 

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