7月6日の夜、ヨーガンの父親が亡くなった。わたしは彼のことをドイツ語で「お父さん」という意味の「ファティ」と呼んでいた。
ファティは今年の3月から病の床に就いていた。わたしたちがマレーシア旅行から帰ってくると義母からのファックスが届いており、そこにファティが入院しているとの知らせが書いてあった。そのときは彼の病がそれほど深刻であるとは思いもしなかった。
3月の末に手術したときには、進行性の胆嚢ガンがすでに肝臓や他の臓器に転移しており、既に手遅れだった。手術後、化学療法を行った。この療法を実行しても快復の見込みのない単なる延命措置に過ぎず、またその副作用はかなりきついものであるため、結局は中止してしまった。その後抗生物質の投与なども試みられたが効果はなく、最終的には治療を断念する形で自宅療養となっていた。
5月の半ばに、まだ入院していたファティを見舞ったときには、顔色もよく、体つきも健康なときとほとんど変わらないように見えた。リサの描いたお見舞いの絵が医療スタッフに評判だという話をいつもの調子で話してくれた。でも、その後症状は悪化するばかりで幻聴や幻覚などの症状も現れてきたらしい。これは肝臓が犯されると出てくる症状だそうだ。痛み止めの薬の副作用もあるかもしれない。
6月中旬に会ったときは自宅のベッドで過ごすことが殆どだった。体つきもずいぶん痩せた印象をうけた。食事はわたしたちと一緒にテーブルでとっていた。やや弱っているものの、以前のファティと人格的には変わらないという感じであった。「気分はどう?」と訊ねると「正直に言っていいいかい?とてもひどいよ。」という答えが返ってきた。ガーデンにいるときは義母に手をとられて庭をひと回り散歩することもできた。庭にしつらえられた簡易ベッドで眠っているときに「パイプオルガン」の音が聞こえたそうだ。教会を否定する彼にとってそれはある種の恥辱だったのだろうか。しきりに頭を振っていた。わたしがたまたま彼と2人きりのときに、ファティはわたしの手を握り、涙を目に溜めて話してくれた。彼の話す言葉はとても聞き取りにくく、理解できたとしてもどんな言葉を返すべきかとっさにでてこない自分が情けなくなった。
義母は彼女が買い物などで外出しているときにファティと連絡がとれるように専用の携帯電話を買った。電話はファティの枕もとに置かれ非常の連絡時に使われる予定だったが、結局は使われることはなかった。ファティの病状はその後さらに悪化し、電話の受け答えなどとうてい無理な状態にまでなっていった。
幻覚や妄想などの症状はその後ますます悪化し、看護する義母を精神的に圧迫していく。夜中も夢と現実とが交錯し、義母の睡眠を妨げる。6月下旬に短い訪問をしたときにファティはベッドに横たわっていた。目は半ば開いて白目が見え、口は大きく開かれたままの姿は半ば死んでいるように見えた。わたしたちの突然の訪問に驚いていたようだが、それでも笑顔で迎えてくれた。
7月2日から3日間再びケムニッツへ。気候も良くなったので義母はガーデンへファティを連れ出す計画でやや興奮気味だった。毎年夏の間ファティと義母はこの森の中にあるガーデンハウスで過ごしてきたのだ。重病人を外へ連れ出すという彼女の計画自体の正否を問うことはあえてしない。ガーデンは彼女とファティにとってかけがえのない場所であるのだ。
最初の日ファティはかなり混乱していた。自分がどこにいるのかも把握していない様子。存在しない人の姿におびえる。夜中じゅう、何か突拍子もないことを義母に語りかける声が聞こえていた。それでも二日めにはかなり落ち着いた様子。普通の調子で普通の会話をすることができた。日中はずっと外のベッドで過ごし、リサが遊ぶ姿に目を細めるファティ。食事もずっとわたしたちと一緒に座ってとった。義母が言うには最近はいつもベッドで食べていたらしい。
夜も昨夜ほどの混乱はなく、二度大きな声で義母の名を呼ぶ声が聞こえただけだ。それでもその声があまりにも大きかったので心配して様子を見に行くと、義母は看護疲れからか、目をさまさずに寝込んだままだった。わたしの姿を見てファティが驚き、その騒ぎで義母がやっと目をさました。翌日、ファティが「昨夜は大声をだして起こしてしまい申し訳ない。」とはっきりとした調子でわたしに言った。その様子は健康なときのファティと何ら変わりがなかった。
彼がベッドに横たわって寝ている姿は、しかし、ときどき目をそむけたくなるものだった。白目がぴくぴくと痙攣し、大きくあいた口からは呼吸の度にぜいぜいという音が聞こえる。こういうとき、彼は幻想を見ているのだ。安らかに眠っているときの姿は目をしっかり瞑っている。混乱と静寂が交互に入れ替わる。さっき普通に話をしていたのに、今は訳のわからないことを口走っている。混乱がひどくなる度に義母は精神安定剤など薬の量を増やしていっていた。がっしりしていた彼の体は痩せて、厚みが半分ほどになっていた。毎朝義母が体を拭き、髭をそる。飲み口のついたカップでジュースを飲む。食事は義母が小さく切り分けておく。
7月4日、水曜日の夜にわたしたちが帰るとき、居間のベッドに横たわるファティに「またすぐくるからね。」と言うと「Lebe
wohl(達者でね。)」という(永遠の)別れの挨拶を返してきた。ヨーガンや義母があわてて「Lebe
wohlじゃなくてAuf Wiedersehen(また会いましょう)でしょ!」と言っていた。わたしは彼の両手を握って挨拶をした。挨拶を終えてから、彼を抱きしめて挨拶するべきだったかな、と後悔した。次にはそうしよう、と考えた。
その二日後、ファティは義母の腕の中で息を引き取ったそうだ。わたしたちが帰ったあと、症状は再び悪化し、もう自分で食事をとることさえできなかったらしい。いつか、そのうちいつか永遠のお別れをしなければいけないことはわかっていたけれど、これほど急だとは思いもしなかった。あの時「Lebe
wohl」と言ったファティは自分の命がもうすぐ尽きることを知っていたのか。死期の見えている病に接していても、その瞬間が最後になり得るということを忘れてしまうわたしたち。ホームビデオを鑑賞しているときにテープが終わり、今まで流れていた映像が急に断ち切られる。彼の死はそんな印象をうけた。
ファティが亡くなった夜は暖かく心地の良い満月の夜だった。彼の遺体が運び出された時、コマドリが鳴き、蛍のほのかな光が庭を照らしていたそうだ。
2001年7月9日 |