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第1話 きんぎょやとその周辺

 

栄町商店街は長さ300メートルほどの細い道路沿いにちいさな商店が二十店ほど建ち並ぶだけの貧弱な商店街でした。東の端は大阪を縦断する幹線道路の側道と、西は「門真銀座商店街」という栄町と隣の本町にまたがるやや規模の大きい商店街とそれぞれ交差していました。

現在はほとんどのお店が閉められ、また店舗がはいっていた文化住宅(戦後建てられた木造の2階建て長屋)も取り壊され新しい家が建ち、当時の面影は少なくなってしまいました。

今はゴーストタウンのようにさびれてしまったこの商店街も、子供たちが小銭を握り締めてアイスクリームやたこ焼きを颯爽と買いに行く活気にあふれた通りだったのです。

うちの勝手口から路地をぬけるとそこが栄町商店街の東の入り口になります。というかこのあたりはアパートしかないので、商店街としてはもう場末です。しかし、この商店街でいちばん目立つお店は実はこの東の果てにあったのです。

そこには大小様々な水槽が所狭しと並べられ、その中には赤や白の金魚や熱帯魚たちが優雅に泳いでおり、店の前には錦鯉の泳ぐコンクリート製の生け簀が作られてありました。それは、まぎれもなく「きんぎょや」でした。そこで金魚を買ったことがあったかどうかは、もう忘れてしまいましたが、薄暗い店内に足を踏み入れると水槽越しに外光が差し込んできて、金魚の赤い色がやけに怪しく美しかったことを覚えています。

このきんぎょやの家には4人の子供がいました。わたしよりひとつ年下の双子の女の子と、その下に男の子と女の子がひとりずつ。わたしが通っていた小学校は集団登校となっていて、近所の子供たちが数人集まってひとつの班となり毎朝一緒に学校に行きます。ここの双子ともう一人の女の子はわたしと同じ班でした。(班は男女別)わたしが最高学年で班長のとき、よく寝坊していたのですが、きんぎょやの双子がいつも呼びにきてくれていたのを思い出します。

金魚屋の手前は出入りの激しい店舗で事務所になったりレストランになったりしていましたが、「じゅん」と言う名の喫茶店だったとき母に連れられてはいり、クリームソーダを飲んだことを妙にはっきりと覚えています。そこのクリームソーダはピンク色だったような気がします。あと、母はいつもブラックでコーヒーを飲むのですが、飲み終わった後カップの底に少しだけ残ったコーヒーに小さい銀色のピッチャーからフレッシュをいれて飲ませてもらったのもここだったように思います。

金魚屋の向こう隣は「ミカサ」という店がありました。このお店は現在も残っています。ここはコーヒー豆の卸屋さんで、小売もしてくれます。ショウウィンドウ越しにブルーマウンテンやキリマンジャロという名札のついたコーヒー豆を何を考えるでもなく眺めていたあの頃のわたし。

ミカサのむかいはホルモン焼きというのれんの掛かっている大衆食堂。ホルモン焼きというのは大阪の代表的な庶民の食べものらしいのですが、この店の客は肉体労働者風のひとが殆どだったようです。「ホルモン」という言葉の意味が当時よくわからずに、その響きになんとなく異様なものを感じていました。ちなみにホルモン焼きとは内臓などいわゆる「もつ」のことだそうです。

このホルモン焼きに代表されるように、わたしの生まれ育った町は、下町だったのです。

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