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第2話 地味な一角

金魚屋で派手にはじまった栄町商店街ですが、細い通りを越えた一角はやや地味な店舗が続きます。

ホルモン焼き屋と通りをはさんだ向かいの角には理髪店がありました。ここは「ニッタマチの散髪屋」と呼ばれていましたが、「ニッタマチ」とは理髪店経営者の苗字で確か「新田町」さんだったと思います。けれど、その響きの良さから「ニッタマチ」はどことなく苗字というよりは屋号のような感がありました。お店の前には理髪店のシンボルである赤白青のクルクルがあり(なんと言うのだろう?)パンチパーマ風の写真が窓に貼られていたような記憶があります。このうちには小柄の可愛らしい奥さんと、奥さんによく似た男の子と巻き毛の女の子がいました。ご主人のほうはあまり記憶がないのですが、なんとなくパンチパーマだったような気がするのは、もしかしたら窓に貼られていた写真と混同しているのかもしれません。

その横にはこの一角のなかでもかなり地味な暗いお店がありました。そこは、いわゆる「食料品店」とでもいうのでしょうか。卵からニッスイのハム、インスタント食品などが置いてあったように思いますが、子供のわたしにとってこの店の存在価値はアイスクリームを売っていたことだけにありました。駄菓子なども少しは置いてあったのかもしれませんが、もう少し先にある「ヤマザキパン」の常連客であったわたしはここで買い物することは非常に稀でした。間口は狭く、細い通路をはさんで商品が所狭しと置かれてあり、暗い店の奥で愛想の悪いおばさんがテレビを見ながら店番をしていました。この店の印象が悪いのは、ある日店先で近所の子供たちと口喧嘩をしたことがあるからかもしれません。彼らは子沢山の家の姉妹で、わたしがいちばん下の子供を泣かしたとかなんとかで因縁をつけられたような気がします。事実のほどは今となってはその暗いお店と同じぐらい暗い闇の中に埋もれている。

さて、その隣は文房具屋さんです。ここにはわたしより2歳ほど年上の女の子がひとりいて、集団登校が同じ班でした。まだコンビニが無かった時代。明日の図工で使う絵の具を買うのを忘れた!というとき、朝一番にまだ店のガラス戸が閉まっているところへ母と一緒に行き、「すいませんけど、絵の具買わせてもらえますか。」とお願いして売ってもらうのです。ローソンがはじめて日本にできたときのテレビコマーシャルはまさにこれをテーマにしていました。「あ、絵の具買うの忘れた!」「でも大丈夫!ローソンなら朝の7時から開いています。」「開いててよかった!」・・・・というわけで、コンビニの進出で衰退していったこんな個人商店が日本全国にいったいどれだけあるのでしょうかね。

ところで、わたしが家の屋根にこっそり登って開放感とスリルを楽しんでいたとき路地を歩いていた文房具屋のご主人に目撃されたことがあります。それ以来しばらく、このご主人には自分の秘密を握られているような脅迫感を持ちつづけていました。彼は自治会で活躍されており、何かの折にふれては、顔を合わせることがあったのです。

文房具屋のお隣は古本屋さんというふうに栄町商店街の文化エリアが形成されているのもこの一角。お店の前には「本」という大きな文字が書かれた看板が置いてありました。古本というものの、置いてあるのは殆ど漫画本や絵本だったような気がします。ここには可愛い女の子がいて、わたしが5年生のときに1年生として集団登校の班に入っていきました。町内回覧版を持って彼女のお母さんがよくうちに来ていました。

これらの店のむかい側には何があったのか思い出せません。二階建ての文化住宅だったような気もするけれど、定かではありません。この地味な一角を抜けると、わたしにとっての商店街のハイライト、ヤマザキパンとたこ焼き屋が登場するのでありました。

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智行さんからメールをいただいたのでご紹介します。ありがとうございました。

 

栄町商店街の話、懐かしく読みました。僕も小さい時は50円持って駄菓子屋によくお菓子を買いに行きました。そうそう、昨年末で金物屋さんも閉店してしまいました。はんこ屋も柳町に移転しました。金魚屋の前の食堂(大阪屋食堂)は、去年か一昨年かに改装してましたよ。結構、繁盛してるんでしょうね。行ったことないけど。僕が小さい時から今まで残っているのは、大阪屋食堂、クリーニング屋、ゴンドラ(バー)、福寿司(場所変わったけどね)、質屋、ラーメン屋ぐらいかなあ。あと10年もしたら、どこも残ってないかもしれないですね。写真、そのうちに送ります。             

智行

お願い:当時ならびに現在の栄町商店街の写真をお持ちの方はメールで送ってください。