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昭和40年代後半から50年代にかけての時代。

日本は高度成長期を経て先進国とよばれるようになった。

わたしはその頃小学生。家の裏にあった小さな商店街。

時代の谷間にいつのまにか置いていかれてしまったそんな風景を

今、再現するという試みです。

これまでのお話

第3話 駄菓子屋とたこ焼き屋

「はい、おつり50万円。」

そう言いながら50円玉をわたしてくれた老人は今から考えると彫りの深い、西洋人のような顔立ちをしていました。その奥さんもやはり目鼻立ちのくっきりしたきれいな顔をしていました。しかし、当時のわたしにとって、そのようなことは一切何の意味をも持ちませんでした。彼らの経営するヤマザキパンの看板を掲げる食料品店にはパンや駄菓子、飲料やアイスクリームが軒先所狭しと並べられていました。毎日のお小遣いで20円のカレースナックや10円の串にささったカステラ、30円の王将アイス(イチゴ・バナナ・チョコの3色アイスキャンデー。くじ付きであたるともう一本もらえる)などを買い食いするのが毎日の習慣でした。

その店のおばちゃんは顔立ちに似合わず、いつも割烹着にきらりと輝く金歯がいかにも下町風。気さくという感じではなく、どこか冷めた感じのする女性だったように記憶しています。それに対し、いつも金額を一万倍にしてしまうおっちゃんは、くだらないシャレで子供を笑わせてくれるサービス精神の旺盛なおちゃめなひとでした。いつもハンチング帽のようなものをかぶっていた彼が亡くなった後はおばちゃんがひとりで店を続けていたように思います。

毎日のように通ったこのお店。いつの間に行かなくなってしまったのでしょうか。気がつけば店はたたまれていました。最近の子供たちはスーパーやコンビニにお菓子を買いに行くらしい。レジでバーコードを読み込まれ、消費税を課税されて97円。100円はらって「はい、おつり3万円」と言ってわたしてくれるレジのおばさんはいるだろうか。

 

駄菓子屋の向かいだったか、もう一筋向こうだったか。その角にはたこ焼き屋がありました。窓の向こうでおばさんがたこ焼きを焼いていて、わたしたちは窓越しに注文するのです。船形の木の皮にはいったたこやき8個が50円だったでしょうか。鉄板にあいたたくさんの丸い穴に油が塗りこまれ、そこに銀色のステンレスのポットから肌色の生地が流し込まれていく。たこのぶつ切りが目にもとまらぬ速さでそれぞれの穴に投げ込まれる。テンカスや紅しょうがなどで彩られたあと、穴から溢れ出した生地を見事に畳み込みながらピックでくるりと回してたこ焼きが形作られていく。途中、くるくると回してまんべんなく焦げ目がつくと、これまた目にもとまらぬ速さでおばさんが焼きあがったたこ焼きを器に盛り、ソースが塗られ青海苔がふりかけられる。2〜3本の爪楊枝がぞんざいに突き刺され、白い紙をのせ、緑の薄紙でくるりと包まれる。

わたしがあれほどたこ焼きを愛したのは、食べる楽しみだけでなく、この焼きあがるまでの過程を観察する楽しみがあったからにちがいありません。実際、公園の売店などですでに焼きあがってプラスチックのケースに入れられているたこ焼きはちっとも美味しいとは思いません。熱い鉄板に生地が注がれるときの音。無秩序に広がっていた生地や具が一本のピックとおばさんの技術で見事な球形のたこ焼きに変貌していく様子。木の皮とソースと包み紙のにおい。これらの全ての要素が作用してわたしのたこ焼き観が形成されている・・というのは過言でしょうか。

子供たちが窓越しにたこ焼きが焼ける様子を夢中で見つめる。今でも大阪のどこかの町ではまだこんなたこ焼き屋があるのでしょうか。きっとまだあるはず。あって欲しい。

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