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昭和40年代後半から50年代にかけての時代。

日本は高度成長期を経て先進国とよばれるようになった。

わたしはその頃小学生。家の裏にあった小さな商店街。

時代の谷間にいつのまにか置いていかれてしまったそんな風景を

今、再現するという試みです。

これまでのお話

第4話 クリーニング工場

「プシューッツ!」

そんな音とともに勢い良く蒸気が立ちのぼる。天井からは何本ものコードがぶら下がっている。職人が機敏に立ち動く。台の上には白い布が置いてある。

そう書きながらも実はその映像が現実のものであったのか、あるいはわたしが後になってそこがクリーニング工場だと知って創りあげたものなのか、定かではありません。

ヤマザキパンのとなりはクリーニング工場で、いつもお菓子を買いにいったときにその中の様子を開かれた窓から何とはなしに眺めていました。工場といってもヤマザキパンと同じような文化住宅の1階部分を利用した小さなもの。子供のわたしはそれが工場であることすら知りませんでした。かといって、そこが何であるかということを誰かに尋ねたこともありませんでした。

それなのに、なぜか「プシューッツ!」という音、立ち上る蒸気、そして白い布という強烈なイメージがわたしの中にこびりついているのです。

 

そのむかいには金物屋と鍵屋が軒を連ねていました。金物屋にはやかんや鍋、網、たわしなど様々なものが、あるものは天井からぶら下がり、あるものは台の上に積み重ねられていました。「かなものや」という響きでさえ今では古語の響きを伴って聞こえてしまいます。

隣の鍵屋にはたくさんのいろいろな形の鍵が吊り下げられてありました。当時のわたしの実家の玄関は引き戸で、中からしか鍵を開け閉めできませんでした。外出のときは玄関を内側から閉めて、台所の勝手口から出ます。勝手口の鍵を閉めるのは家族揃って出掛けるときぐらいなので、わたしが鍵を持ち歩くということは一度もありませんでした。だから鍵に慣れていないわたしは、大人になってはじめて一人暮らしをしたとき、何度も部屋のなかに鍵をとじこめたりしてしまったのでした。

 

その向こうにつづくのは「福ずし」というお寿司屋さん。当時はお寿司といえばいつもここから出前してもらっていました。男前のご主人と貫禄のある奥さん。そしてその娘さんである「まさみ姉ちゃん」はとても美人でした。目がパッチリとしていていつも落ち着いた感じ。いっときお店のお手伝いをしていたみたいだけれど、今となっては時代が交錯していてそれがいつ頃のことかよくわからなくなりました。出前はいつもご主人が持ってきてくれて、子供のわたし相手にでもいつもなんだかんだと話をしてくれました。そういえば子供のときはいつも「わさびぬき」を注文してもらっていたなぁ、と自分の娘がわさび入りのキュウリ巻きを食べて涙していたのを見て思い出しました。

寿司屋を少し奥にはいったところにアパートがあり、そこの管理人をしていた家族とわたしの家族は仲が良く一緒にハイキングに出掛けたりしていました。子供は一人っ子で、わたしよりひとつ年下の「ゆかちゃん」。「ゆかパパ」はテノールが魅力のカッコいいおじさんで、「ゆかママ」はちょっと萩本欣一に似た二枚目のおばさんでした。一緒に行ったプールでとても長い滑り台があり、ひとりでは怖くて滑れなかったわたしは「ゆかパパ」の膝の上にのせてもらって滑りました。そのときのちょっと気恥ずかしかった気持ちはいまでも覚えています。

 

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