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新しい車を買うことになった。

それにともない、今乗っている車を下取りに出すことになった。

今まで7年半のわたしたちの生活。そのいろいろな場面の片隅に登場していたこのオンボロ車。その広いトランクルームにはたくさんの思い出が詰まっている。ガソリンタンクは幸せで満タン。アクセルを踏むと蜂蜜色の夢へと突進していく。

そんな愛しい思い出いっぱいの車へのお別れの挨拶です。

前回

A   

1996年5月 わたしがこちらに来て、初めて旅行をすることになった。行き先はオーストリア、ウィーンとザルツブルグ。ドイツが誇るアウトバーンを南に向けて気持ちよく走っていった。

ザルツブルグでは1階がレストラン兼居酒屋になっているホテルに泊まったが、街の中心に近いため周辺の道路はすべて駐車禁止。ホテルの女主人に訪ねると、ホテルの裏の道に止めれば大丈夫とのことで、わたしたちのトレドをそこに回す。翌朝、チェックアウトを済ましてウィーンに向かおうとしたわたしたちの目に飛び込んできたものは、 フロントガラスに貼り付けられた路上駐車禁止違反の反則切符。そこも駐車禁止だったのだ。どひゃ〜ん!他人の言うことを鵜呑みにしてはいけない。(一ヶ月ほどたって、オーストリアの警察からしっかり罰金請求書が届きました。外国だからと言って、逃げられない。)

それ以外は、とくにトラブルもなく、美しいザルツブルグやウィーンの街を楽しんだ後、わたしたちは家路へついた。わたしは車の運転が嫌いではないので、ドイツでも機会があれば運転したいと常々思っていた。そこで、この旅の帰路にアウトバーン上で運転させてもらうことになった。

オーストリアの国境を超え、ドイツ国内に入ったあたりのドライブインで運転交代。マニュアル・ミッションだが、一度発進してしまえば、高速道路上ではほとんどギアチェンジも必要ない。最初のうちは中々調子良く走っていた。一番右の走行車線(低速)を100km/hぐらいでマイペースで走っていた。追い越されても気にしない。が、そのうち、わたしよりも遅い車に追いついてしまい、やむなく車線変更をして追い越す。そしてまた右車線に戻って走り続ける。しばらくすると、また遅い車に追いつき、車線変更、追い越し。そういうことを何度か繰り返しているうちに、知らないうちに速度はどんどん上がっていっていた。

追い越し車線を走っている他の車は140km/hぐらいの速さで飛ばしている。(でも、これはドイツのアウトバーンでは平均的な速さ。 三車線あるところでは、一番左側の車線は時速180から200ぐらいは出ている。)無意識のうちにわたしもこの速さに煽られて、140近くで走っていた。もう右側車線には戻れない。スピードを落とせばもちろん戻れるのだが、すでにこの時点で半分パニック。実は、わたしはスピードに弱 く、高速下では判断力が麻痺する。どうして良いかわからなくなってきた。

ちょうど出口が近づいてきたので、ヨーガンがここで出ろ、と指示をだした。運転を交代しようと思ったのだが、ドライブインもないので一度高速を降りて、車を止めるためだった。わけのわからないまま、そのままのスピードで高速出口 に入っていった。速度を落とすこなどに気が回らない。「減速しろ〜!僕は死にたくない〜!」と叫ぶヨーガンの声で、どうにか状況を把握。なんとか無事に国道に出ることができた。この時点で、もうわたしは涙をボロボロ流しながらハンドル握っていた。赤信号で停車している間も嗚咽に むせぶ。が、信号が青に変わって発進しようと思っても、うまくギアが入らない。何せ、高速ではギアチェンジしなくてもよかったから、今更この状態で冷静にギアを切り替えられるはずもない。後続車からクラクションの嵐。パニック更に深まる。後ろの車の運転手が追い越し際に腹立たしげな表情で私の顔を覗き込む。超低速でノロノロと右折して側道に入り、道の脇に車を止める。そして狂ったように泣き喚くわたしと青ざめたヨーガン。

その後、わたしには車の運転禁止令が夫より施行され、今日に至っている。

 

1997年11月末  霙が降る寒い夜だった。わたしはトレドの後部座席にうずくまっていた。この二日間で三度目の病院訪問。前回二回はまだ早すぎるということで出戻りしていた。今回は、陣痛の激しさが前回とは比べものにならないほどで、助手席に座ってなんかいられない。寒くて暗い後部座席で定期的に来る痛みをこらえてうずくまっていた。

その4時間後、リサがこの世に誕生した。

 

つづく